【レポート】キックオフ座談会第2弾「“未”被災地のための防災アートは可能か?」

ハート防災Jです。3月3日(土)17時~、ハート防災キックオフイベント座談会の第2弾に行ってきました。2月25日に焼津で開催された座談会に続き2回目の開催です。

会場は三島市民文化会館。テーマは第1弾同様「“未”被災地のための防災アートは可能か?」です。

コーディネーターも前回と同じく平野さん。テーマは同じでも、パネリストの顔ぶれ、専門性は随分違います。どんな話になるのか楽しみですね。

パネリスト:
小山真人氏(静岡大学教育学部教授/防災総合センター副センター長)
鈴木雄介氏(伊豆半島ジオパーク推進協議会専任研究員)
住 康平氏(Cliff Edge Project代表/美術家)
松本圭司氏(郷土雑学)
コーディネーター:
平野雅彦氏(静岡大学教育学部特任教授/人文社会科学部客員教授)

☆座談会パネリストプロフィールはこちら

まずはパネリストの自己紹介から。

まちめぐり案内人のおひとり、小山真人教授。「防災・減災のための知識、技術、社会の徹底とそれを伝承すること」が防災文化であり、ジオパークもそのひとつ。地球と地域のことを、知って守って役立てるのがジオパークの基本構想。

文化や芸術も、大地=ジオと繋がっていることを図解で説明してくれました。

同じく案内人をつとめた鈴木さんは、自然災害を、災害リスク=自然現象×脆弱性(社会の弱さ)というわかりやすい図式で紹介。

登呂遺跡周辺の自然堤防と昔の人々の居住場所との関係や、三宅島の噴火を鎮める下田市白浜神社の祭りの事例に触れながら、「美しい自然は災害の語り部」であり、自然を楽しむことが自然災害を理解することにつながること、自然現象は必ず起こるという確信を持てるかどうかの重要性について話してくれました。

2013年に三島に移住した住さんは、断層、盆地、トンネルの3つが集合する「丹那」という土地に興味を持ち、2014年からCLIFF EDGE PROJECTをスタート。美術家の視点で素材や情報を集めた「丹那の記憶」なる展覧会を開催しました。

2015年には「半島の傷跡」展を開催。丹那断層をはさんで、丹那盆地の北西にあるギャラリーKURUBUHI-BASEと南東にある寺院渓月山長光寺を鞘堂に見立て、その中にモニュメントを設置しました。丹那という土地の特徴や歴史をアートで表現することが、そこから何かを感じ想像することにつながると。

まちめぐりの同行中も、その雑学ぶりを発揮していた松本さん。お話からは、狩野川台風を経験した松本さんだからこその、復興で痕跡が残らないこと、風化していく事への危機感が伝わってきました。お題に対して「キックオフで蹴られたボールを楽しもう」と言いながら、「文明が進化しすぎたことによる人間独自の文明的な災害」についての課題感もお持ちでした。

平野さんから「ジオパーク」での防災アート(?)の活動についての投げかけがありました。

ジオ菓子や、断層をテーマにした生け花展など、自発的に自分の専門分野でその土地を表現している人がいる。ジオパークは人づくりの場でもあると、小山さん。

防災のため、観光のため、ではなく、大地の自然現象が作った上に自分たちの生活があるというのがジオパークの考え。断層も火山も、怖い側面だけでなく恵みの面も理解されるようになって、こういう動きがでてきているのだろう、と鈴木さん。

防災と観光は本来は相反する。防災と言わずに、知らず知らずのうちに災害に強い地域社会を作るのがジオパークの理想とのことでした。

平野さんから、今回のパネリストでは唯一アートが専門の住さんにボールが投げられました。

防災ありきのアートについてはジレンマを感じる部分もあるという住さん。但し、記憶を呼び覚ますという意味で、作品が結果的に防災に機能することもあるだろうという見解も。

ジオについても住さんの活動についても、防災を振りかざすことなく、結果として防災につながるアートだったり文化が生まれる可能性が見えてきたことは、第1回とまた違った部分かなと感じました。

平野さんから、第1回の参加者の声を踏まえて、会場の声をもっと聴いていこうと投げかけると、一挙に4~5名の手が上がりました。仕込みでもなくこれだけ手が上がるのを見たことがなかったので、正直驚きです。

実際の被災者が作品にされることの抵抗感についての質問には、

確かに記憶を呼び覚ます、風化させない事と、当事者を傷つける事は、まさにもろ刃の剣。それでも、人と話しながら見えてくるものがあったり、やることの意味を考えたりしながら、アートで出来る可能性を模索していくのはありかもしれない。正解はないですね。

その他にも、防災とアートの関係の投げかけや、ジオパークを参加者が続けている「ひょっこりひょうたん島」で表現する提案、ジオパークやアートを防災行動に繋げるために防災を目的とした解説が必要では?というお題、自然そのものがアートという話など、多くの質問、意見が飛び交いました。

ここでは、書ききれないので興味のある方は、動画がアップされたら是非ご覧ください。

最後に私が印象に残った言葉だけ少しご紹介します。

「アートは防災無関心層への大きなアプローチのチャネル」

「自然から受け取ったことをニュートラルな形で作品にできることの魅力」

「ジオやアートが、行動変容へのきっかけになれればいい」

「みんなが表現者になればいい。内容がいい悪いではなく、どんどん皆さんが表現してください。それで見る人がどう受け止めるかは、見る人それぞれでいい。」

「アートってそれでいいんじゃないか?」

行動によってのみ状況は変わる。これは私の持論ですが、一番怖いのは無関心、無行動ですよね。

”防災アート”という難しいお題に答えは出ませんが、”防災アート”という石が座談会、ハート防災に関わる人たちの池に波紋を広げることで、何かしらの行動に変化が産まれればいいな、と感じた座談会でした。

みなさま、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

【レポート】キックオフイベント第2弾 まちめぐり◆函南~三島

地球の営みから生じる 美と畏れを感じる。

ハート防災Jです。3月3日(土)、ハート防災キックオフイベントの第2弾「まちめぐり◆函南~三島編」に参加してきました。

当日は天気に恵まれ、三島市民文化会館を13時過ぎに出発。バスの中では、「三島は富士山の溶岩がつくった街」「三嶋大社はその土砂の上に立っていて、石垣は富士山の石でつくられている」「2900年前に富士山で大きな崖崩れが御殿場を埋めた」など、面白い話が聞けました。話をしてくれた案内人のおふたりは、

静岡大学教育学部教授で、火山学、地震・火山防災などを専門とする小山さん

小山さんの教え子で、火山の調査から防災マップにも従事し、現在は伊豆半島ジオパーク推進協議会 専任研究員の鈴木さん。

お二人の詳しいプロフィールはこちらをご覧ください。

その後も「三島は坂のまちで、沼津よりも30m位高いところにある」「田方平野は昔は入り江で、掘ればしじみがでてくる。地盤がゆるい土地で被害が大きく、火山の恵みで野菜の産地になった」など、歴史的な視点で見ると、なにげない起伏も地球が生きている証拠だということ。うーん、面白いです。

そんな話を聞いている間に、最初の目的地「丹那断層公園」に到着しました。

丹那断層は、1kmもの断層のズレが世界で初めて実証された有名な活断層。川が食い違っていることが地図上でわかります。ジオパーク説明版の下にある、伊豆半島ができる60万年前の図を見ていると、人間はなんてちっぽけな存在なんだ、と思えてきます。

丹那断層一帯の模型を見ながら小山先生が説明してくれました。屋外施設なので、いつでもだれでも見ることができます。

1930年の北伊豆地震によって起きた断層のズレを見ることができました。

写真だけだと分かりにくいので説明版も。丸い塵捨場と水路がずれているのが見えます。場所によっては2mの横ずれが発生し、当時工事中の丹那トンネルを直撃。当時の様子は、吉村昭さんの小説「闇を裂く道」でもよく分かるそうです。小山先生おすすめの1冊。

観察室では、地下の断面図を見ることができます。ちょっと分かりづらいですが、地震の歴史をこういう形で残して公開するということ自体に価値があるということです。

酪農王国オラッチェにバスを停めて、丹那盆地の田園地帯から山側を見学。鈴木さんが、数十万年かけて上下にずれた断層地形の説明をしてくれました。普段は気にすることのない山の尾根にも歴史があります。

オラッチェにて休憩タイム。小山先生絶賛のソフトクリームには行列ができていました。美味しそうです。

伊豆半島ジオパークの案内板がありました。

伊豆半島は、かつて南洋の火山島や海底火山の集まりだったものが、フィリピン海プレートと一緒に北上し、本州に衝突してできたものです。「伊豆半島ジオパーク」は、現在も続く火山活動や地殻変動がもたらす自然の恵み、温泉や湧水、美しい景色や文化などを含め、各スポットを「南から来た火山の贈り物」をテーマに、伊豆半島をまるごとミュージアムとして紹介しています。

詳しくはホームページをhttp://izugeopark.org/

丹那盆地から北上し、次に向かった先は、田代盆地の火雷神社。北伊豆地震の際に横ずれした跡をみることができます。

上から見ると、階段と鳥居がずれているのがわかります。

崩れた鳥居も、そのままの状態で保存されていました。災害を語り継ぐために、地域の人がそのままの状態で残しています。北伊豆地震では死者・行方不明者272人という大きな被害がありました。「なぜ壊れたままなの?」と考えさせることが、事実を風化させない役割を果たすのでしょう。

函南から三島に戻り、三島駅前の浅間神社へ。

遠い昔、富士山噴火があった時に流れ出た溶岩が、ここ浅間神社で止まったことから、別名「岩止め浅間」とも言われています。神様が足で止めた跡が残っているという言い伝えも。

歩いてすぐの所に白滝公園があります。富士山から流れ出た溶岩が三島市北部の台地を作り、亀裂やすき間の多い溶岩は、地下水の通り道となって湧水を生んでいます。白滝公園は、三嶋の一大湧水地で、溶岩から溢れ出る様が滝のようだったのが名前の由来だそうです。

足下には、溶岩がところどころにあります。何万年、何十万年の歴史の中で形作られてきた土地の上に暮らしているんだなと実感します。

防災の話をしていると、地震、津波、噴火など自然災害に目が行きがちですが、自然がもたらす恩恵を忘れてはいけません。自然に対する敬意を失わずに、人間が選択肢を間違えないためには、自分が住んでいる土地を知ること、語り継ぐことが大切です。「地球の営みから生じる美と畏れ。」を学ぶツアーでした。

 

 

 

【レポート】キックオフ座談会第1弾「“未”被災地のための防災アートは可能か?」

2月25日17時~、焼津市役所アトレ庁舎3階の焼津公民館にて、ハート防災キックオフイベント座談会「“未”被災地のための防災アートは可能か?」の第1弾が行われました。

パネリストには、防災やアートに関する専門の方々が揃い、進行はコメンテーターとしてTVで見掛けることも多い平野さん。パネリストは、

窪田研二氏(インディペンデント・キュレーター/KENJI KUBOTA ART OFFICE代表)
藤井基貴氏 (静岡大学教育学部准教授/防災総合センター准教授)
松下徹氏 (SIDE COREディレクター/アーティスト)
松田香代子氏(松田民俗研究所代表)

の4名。プロフィールの詳細はこちらをご覧ください。

https://www.sbs-promotion.co.jp/heart-bosai/panelist_profile

平野さんより、あまり耳慣れない「防災アート」「未被災地」という言葉について投げかけがありました。防災×アートという表現は今までもあるが、防災アートが意味するものは何か?静岡は未被災地と言って良いのか?など。参加者が疑問に感じているであろう部分に触れた上で、

「答えが出ないからこそ、一緒に考える良い機会だし、これが何かのスタートになる。」納得です。

パネリストの簡単な自己紹介から始まりました。

座談会前に実施した「まちめぐり」のおさらいに続き、自然災害常習地帯の暮らしの工夫について語ってくれた松田さん。東北の津波から多くの命を守った神社や寺院がある集落の中の小山を高台集団移転地として平らに造成している現実や、静岡でも見かける平成の命山の話が印象的でした。記憶を記録する意味、災害遺産という考え方の必要性を感じます。

震災をきっかけにアーティストの意識が変わったという松下さん。「自分のために」から「誰かのために」作品をつくるようになったアーティストが多いそうです。最近では、福島「はじまりの美術館」への出品など被災地との関わりもあり、アートな発想やアートそのものが、新たな行動のきっかけになる可能性を示唆してくれました。

静岡大学で防災教育に関する開発研究をしている藤井さん。内容が身近で分かりやすく、笑いも交えながら会場の雰囲気を和らげていました。これから必要なのは「考える防災」であり、「防災の日常化」「防災の多様化」「防災の自分事化」が重要とのこと。紙芝居など、アプローチの内容は、神戸で見学したイベント「イザ!カエルキャラバン」に通じるものがあります。

窪田さんは元美術館の学芸員で、現在フリーのキュレーターとしてアートの可能性を色々な場面で実践、追及されている方。筑波大学と行った「創造的復興プロジェクト」では、芸術やデザインがハードだけでなく、新しい価値観を創造する復興支援につながること、学生が被災地での活動を通して学ぶことの大きさを実感されたそうです。

「防災アート」という定義のないものから平野さんが投げかけたのは、「お祭り」というひとつのワード。そこから話が膨らみます。

松下さんからは、被災地で「一晩だけ特別なことが起こるイベント」を実施したことから、被災地から東京まで風景で繋がることや、普段気づかないことに気づく可能性を体感。

「共に何かをする祝祭性のあるもの」は、共に助け合うことにつながるとは、藤井さん。お祭りだから見える人の多様性、社会的な役割の再認識が、地域防災を進める上で重要であると聞き、なるほどと思いました。

3.11の復興も祭りからだし、災害と防災は常に密接した関係があると松田さんは言います。お祭りには、コミュニティの力を再生するパワーがあると。

非日常だからできる。そこで個人を見直す。社会を見直す。そして日常を高めていく。お祭りが持つ機能が、防災アートの可能性に繋がるヒントが産まれました。

後半はアートが持つ可能性について。

窪田さんは、2015年~「Don’t follow the Window」という、福島県の帰還困難区域で開催中の“見に行くことができない展覧会”を開催する中で
何を想像させるのか?を特に意識したそうです。

アートが持つ、想像力を喚起する力は、防災アートの可能性を広げていきます。

藤井さんからは、「戸惑いを受け止めよ」という言葉が出ました。すぐに答えを求めたり、単純化する現代にあって、複雑化や戸惑いがアートの力だと感じるそうです。答えがあると学習は止まる、アートそのものが「考えるきっかけ」として重要な役割を果たすと。

他にも様々な意見がありましたが、書ききれないので、興味のある方は、座談会の模様を動画にアップしておりますのでご覧ください。

参加者からも活発な質問、意見が出ました。

その中では、防災意識を高める想像力、コミュニティ強化の重要性につながる話、被災地では心のケアの問題から難しい防災教育も未被災地だからできることのヒントなど、貴重な意見があり、もっと参加者との交流があっても良いかなと感じる部分でもありました。

始まる前は、「防災アート」「未被災地」という難しいお題に対してどうなるのかと若干心配しておりましたが、終わってみれば、気づきあり、繋がりありと面白い座談会でした。答えが出るものではありませんが、「想像し、創造し、分析し、超えていく」ひとつのきっかけになったと思います。

皆さま、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

 

【レポート】キックオフイベント第1弾「吉田町/レック株式会社」

津波を受け流し1000人が避難できる3階建て倉庫兼避難所

焼津・浜通りのまち歩きの次は、バスに乗って吉田町に移動。目的地は、レック株式会社の倉庫兼津波避難所です。

車中でまちめぐり案内人の松田さんが、大井川の洪水対策として古くから採用されていた「舟形屋敷(三角屋敷)」の話をしてくれました。

洪水が流れてくる方向に向け屋敷全体を舟形にして水路をつくり、氾濫した水の流れを直接受けることなく後方へ流す設計です。また、屋敷のそばに「水塚」という盛り土をし、竹や木を植えて避難所としたそうです。

その考え方が、津波対策としてレックの倉庫設計に使われていると聞いて更に興味が膨らみます。

吉田町川尻のレック(株)第5倉庫に到着です。

レック株式会社は、昭和54年に焼津で創業した家庭用日用品の製造販売を行っている会社で、現在は東京に本社を置く一部上場企業。洗剤を使わず「水だけで」簡単に汚れを落とす使い捨てクリーナー「激落ちくんシリーズ」が有名です。

総務部の割場さんが休日にも関わらず倉庫を案内してくれました。

1階入り口から南に向かう通路を抜け、海側に面した倉庫の形状を見ると…

3階建の大きな建物が、海に向かっている船のような形をしています。津波が来た際には、この形状が「舟形屋敷」のように、水を左右に受け流すということ。

さらに、通路のシャッターを開けることで水の通路を確保し、津波の衝撃を和らげるそうです。その後、「河川津波」という特別番組を見る機会があり、水の流れが生死を左右したことを知り、その重要性を再認識しました。

静岡出身で創業者の現会長青木氏が、東北の震災を見てから「何かをしなければ」「津波から300名の従業員の命を守るために」という思いから、平成24年にこの倉庫兼津波避難所を建設しました。企業理念に「社員が理想とする会社」を掲げ、有言実行している経営者です。

1階から階段で屋上に向かいました。(エレベーターもありますが、実際の避難時を想定して歩くことに)

広い屋上の中央には、レックの文字が。ヘリコプターの目印になっています。

4階屋上の高さは22m。東海地震で想定される津波は8mと言われていますが、想定外のことも予測し、この高さにしたそうです。

海岸線から700m、海抜4Mで、当時は近くに避難できる建物はありませんでした。この倉庫は、周りの住民にも使えるように、近隣の方や組長に合鍵を渡すことで、従業員のいない休みの日でも利用可能。地域住民も含め、1000人以上が一時避難できるように作られています。

4階の備蓄倉庫には、500人が5日程度過ごせる水と食料が備えられています。いつ来るか分からない自然災害の為に、これだけの備蓄を継続していくことは並大抵のことではないと思います。

備えあれば憂いなし。備えの美学がここにありました。

最後にみんなで記念撮影。普段生活している中では触れることのない、様々な防災の姿を見て色んな人と意見を交わす中で、気づきや新たな発想を生む良いツアーでした。

命山という名の津波避難所 ー清水区三保【三保命山(いのちやま)】ー

「命山(いのちやま)」とは

台風や津波で地域が浸水したときに、住民が避難するためにつくられた、人工高台の通称。静岡県袋井(ふくろい)市湊(みなと)地区の遠州灘(えんしゅうなだ)から約1キロメートル内陸には、江戸時代の1680年(延宝8)に起きた津波の被害を教訓としてつくられた二つの人工高台、中新田命山(高さ5メートル)と大野命山(高さ3.7メートル)が残っている。ー「コトバンク」よりー

ハート防災Jです。いきなり命山の説明から入りましたが、みなさん「平成の命山」をご存知ですか?袋井市が、先人の教えに習って、南海トラフの最大津波高10mを想定して造った、約1300人が避難できる人工の高台の通称です。

そして、静岡県中部地区初の命山が三保にあると聞き行ってきました。

小高い公園といった様相で、津波避難所というお堅いイメージは感じません。道路からの高さは7mで頂上の避難場所は海抜8.7m。ここの土は、由比の地すべり対策用に進めた排水トンネルで掘り出した土を使用しているとのこと。由比と三保が繋がってます。

高台の両側にスロープがあります。お年寄りや子ども、車いすも大丈夫。

登ってみると、「おっ、広い」。面積は400㎡で、収容人数は800人。天気が良ければ、富士山が綺麗に見えそうです。”富士山の見える丘公園”と言っていいかもしれませんね。

命山は、避難タワーに比べて維持に掛かる費用が少なく耐用年数がないというのが特徴。それでいて、有事以外でも地域で利用できるわけだから、これはいいです。

柵沿いの花に春を感じます。ベンチは座る部分が蓋になっていて、鍵が掛かっていましたが、中には避難時に必要なものが格納されているのでしょう。最近見かける機会の多い、匠の知恵ですね。

健康快動なる足つぼに効く施設もありました。近所にあったら散歩がてら来たいです。

土地は三井・デュポンフロロケミカル(株)が静岡市に提供し、平成28年3月に完成。三井・デュポンさん、さすが。素晴らしい。企業の地域貢献がもっともっと増えるといいのに。同社は命山のすぐ近くにあります。

ここは津波避難所です。看板がありました。その中に

「みんなで助け合い!」という言葉。子どもがおばあちゃんの手を引いています。

実は、命山に辿り着くまで三保に到着してから1時間を要してしまいました。HPで見た住所(三保760)通りに走っても行きつかないんです。近くの店で、写真を見せながら聞いても、「あるのは聞いたことがあるけど、どこにあるかは?」。「たぶんあそこかな」と教えてもらった先は、全く違う場所。静岡市の「危機管理総室 危機管理課 防災施設係」に電話して聞いて、近くまで来ているがわからず、最後に三井デュポンの社員に聞いて、何とか辿り着きました。後から気がついたのですが、グーグルマップを良く見ると、三保命山の文字が。三保命山で検索したら一発で出ました。

行ってみたい方はグーグルマップで。辿り着くまでの道が少し細くて不安になりますが、クルマで行けます。「三保命山」で検索。

収容人数が800人ですから近所の方が知っていればいいんだと思います。でも歩いて10分程度のところにいる人も知らないのはショックでした。こんなにいい施設なのに。

そんなことがあって、避難所の看板のように、子ども達がお年寄りの手を引いてここまで案内してくれればいいな、と思ったのです。

迷ったおかげ?ではないですが、命山に行きつくまでに多くの避難タワーに遭遇しました。

三保760の住所で辿り着いたのがここ。用地は東海溶材(株)が提供。鍵が掛かっていて登れませんでしたが、地震時は自動で開錠されるようです。

遊歩道の先で発見した避難タワー。

三保には全部で6基の避難タワー(命山含む)があります。ふれあい広場というのが気になったので行ってみました。

国鉄(今のJR)清水港線の終着駅「三保駅」の跡地につくった公園で、工場夜景が見える避難タワーとしても有名。当時のディーゼル機関車も見る事ができます。

三保地区の津波避難ビルの案内がありました。

三保地区は車で走っていて感じましたが、高い建物が少ないんです。だからこそ、避難タワーや避難先の情報共有が命を左右すると思われます。海抜1m~2mのところで生活しているわけですから。

そして気になったのが、津波が平日の日中に発生した時、お年寄りは自力で避難所までいけるのだろうか、ということ。土日や夕方以降なら近くに若い人もいるでしょう。でも、若い人たちが仕事や学校に出かけている時間だったら・・・。

ハードも大事だけど、「みんなで助け合い!」の仕組み作りはもっと大事かも。そして、避難所に関する正しい情報、正しいルートを地域住民が知っていることの重要性。

命山のような、自然と一体化した避難所が増えることを祈りつつ、避難所の有効利用を介して、地域住民のつながり、助け合いの文化が育まれるといいな、と感じる取材でした。